Archive for 5月, 2014

卓越

 世の中にはいろんな宗教があって、いろんな神様仏様が存在する。

どの神様仏様も、万事を卓越していたり、全知全能だったり、悟りに達していたりして、一言でいうとすごい。宇宙スケールですごいと心から思う。すごすぎて、よく分からない。

ただ、それだけすごい存在なのに、どの神様仏様も、人類にだけ罰とか試練とか助けとか赦しとか、いろんなことをチマチマお与えになるのが不思議でならない。卓越して全知全能で悟りに達しておらえるような存在であれば、人間なんかにそうそう構ってられないんじゃないだろうか。もっとドーンと構えておられてしかるべきではないだろうか。

人類が核戦争を起こしたところで、天のうえの神様仏様はちっとも興味なくて、「あ、そう。それより昼寝がしたいわい」みたいな反応かもしれないし、本当に全知全能であればこそ、そういった卓越した態度でいらっしゃるような気がするのだけれど。

思い出したくない

黒歴史、というものは誰にでもあるだろうか。

特に中二病と呼ばれる現象について。

しかしいつかは、そこから解放されるのだろう。

何であの時あんな事やったのか、と思って消したい様な感覚だと思うが、何とかなるもので。

時間が解決するものなのだろう。

なかなか難しいものだな~。いつかは分かるか。

時間が戻せるなら、戻って訂正したい様な事がいくつもあるのが普通なのだろう。

それが出来ないからこその黒歴史なのだ。しかしその場に居る他の人にとっては面白い事かもしれない。それなら、笑いを提供したという事で良いのだろう。感受性の強さこそが、難しい年ごろになってしまうのだろう。

 

ジュンスカ

ツイートで過激なファン批判をしたのが、ジュンスカの人。

「ライブの空気をぶっ壊す奴は来なくていいよ!とにかく!いらない!チケットなんか売り切れなくていいんだ!その日を分かち合える楽しめる奴と楽しみたい!最前列のキップなんてクソだよ!最高な音楽の響きは最前列じゃない!最前列にしか価値を見出せない奴はもう来なくていいよ!俺はアイドルじゃない!」

など、数回に渡って激怒ツイ―ト。

これ見てて思ったけど、普通に酔っぱらってたんじゃないか。

じゃなかったら、公の形でいくらなんでもここまでしないだろう。

しかも、そのファンがした事というのが、実はそんなに大したことでもなかった様なのだ。

譜面台があった為に、そのジュンスカの人の顔が見えない、と最前列のファンがスマホでツイ―トした、とかそういう話だった。

そんなんでそこまでしなくても・・・

フライングキッズ

90年代の特に前半、ダンサンブルなナンバーでカッコ良いバンドがあった。

フライングキッズだ。

1989年3月4日TBSのバンドオーディション番組「平成名物TV・三宅裕司のいかすバンド天国」に出場、キングであったGENを倒して3代目イカ天キングとなる。その後、4週連続勝ち抜き、4月8日放送分ではワールド・ミュージック風の楽曲を引っさげて挑んできたチャレンジャーのKUSU KUSU(楽曲は「オレンヂバナナ」)を倒して5週勝ち抜き達成、初代グランドキングとなり、シングル「幸せであるように」でメジャーデビューした。
初期にはファンクミュージックを前面に出した曲を中心に、1994年頃からは「恋の瞬間」「風の吹き抜ける場所へ」「とまどいの時をこえて」等ポップ路線を取り入れていった。その後も「暗闇でキッス〜Kiss in the darkness〜」「ディスカバリー」などのスマッシュヒットを連発した。

一度解散し、再結成している様だ。

 

軍事貴族

寛平・延喜年間(9世紀末期から10世紀初期)になると、坂東において、中央へ進納する官物を強奪するといった「群盗蜂起」が頻発した(僦馬の党・寛平・延喜東国の乱)。朝廷はこれに対処するため、受領(現地国司の最高位者)に広範な軍事上の裁量権を認める制度改革を行った。具体的には、単に兵動員を許可する「発兵勅符」に代わって群盗を積極的に鎮圧しようとする「追捕官符」を発出するとともに、国単位で押領使・追捕使を任命して、国内の武勇者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけたのである。

この軍制改革は、地方に権限を移譲するという意味で、まさに当時その緒についていた王朝国家体制への転換改革と軌を一にするものだった。

この時期に群盗追討で名を馳せたのが、平高望、源経基、藤原利仁、藤原秀郷ら、没落した下級貴族である。彼らがこうした軍事力を発揮出来た背景には、彼らの父祖の世代が受領に任ぜられた際、狩猟文化を背景に持つ俘囚の武芸を学んでおり、それを基礎とした新式の武芸を編み出していたとする説(下向井龍彦)が唱えられている。彼らは国司や押領使として勲功を挙げるとともに、赴任した地方に土着して国衙から公田経営を公認されるなど、自らの軍事力を維持出来るだけの経済基盤を築いた。しかし、朝廷の彼らに対する処遇は必ずしも彼らが期待したほどではなく、彼らの間には次第に不満が蓄積していった。940年(天慶3年)前後に発生した承平天慶の乱は、このような不満の実体化であった。この乱の叛乱側、追討側のいずれも、延喜期に勲功を挙げた者たちの子孫であったのだそうだ。

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